天香具山考 その1


当サイト「三山・香久山の項」改訂版

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 天香具山周辺部地図



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 天香具山 (あめのかぐやま)

  橿原市南浦町・戒外町  標高152メートル  西麓標高75メートル

 現在の地域名称は香久山と書かれます。 香山・高山・天芳山・天芳来山・天香来山・天加具山・天降山などと表記されてきたようです。近世には、指山・天指山。かご山。とも呼ばれました。この他にも、時代によって様々な呼び名があったようです。



藤原宮より

 香久山は、耳成山や畝傍山と違って火山ではありません。多武峰を含む龍門山系の支脈が大和盆地に下りてきて、侵食に堪えた部分が独立した山に見えるようになりました。香具山は、東・北に尾根を伸ばしており、付近を含めて延びた尾根は畝尾(うねお)と呼ばれています。(「畝尾都多本神社」「畝尾坐建土安神社」など)。 このことからも、藤原京や飛鳥から見える小さな丘のような独立した山容だけで、他の二山のように香具山を区切ることは出来ないように思います。

 大和三山では、香久山だけが「天」の字を冠することからも、天から降ってきた山との伝承が、飛鳥時代には広く浸透していたのでしょう。聖なる山として特別な思いを持って接しられてきました。万葉歌が多いのも、そのことと無関係ではないように思います。(万葉集中15首)

 「伊豫国風土記逸文」
 『伊与の郡、東北の方に天山あり、天山と名づくる由は倭に天加具山あり、天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。よりて天山と謂ふ。 』
古事記や日本書紀の高天原神話にも、香具山は登場します。このように香久山は、大和三山の内でも最も神秘的な要素を持っています。

 香久山の東側は、飛鳥時代以前の諸宮が置かれた磐余の地であることも見逃せません。また、南は我が国が国家としての体制を整え始めた地である飛鳥があり、西にはそれを完成させた藤原京を控えていることにも注目しなければならないでしょう。
 磐余・飛鳥・藤原と常に政治の中心地に近い香具山が、崇敬を集めやすかったこともあるのでしょう。あるいは、神話の体系化に都合の良い場所にあったと言えるのかもしれません。
 また古くには、大和の有力氏族の祖先神が鎮まる場所として、神聖視されてきたものなのかも知れません。

 しかし、平城遷都、平安遷都と時が経つに従い、その崇敬の念も薄れて行くようです。延暦24年(805年)、百姓が勝手に木を刈ったため、改めて禁制を出さなければならなかったとの記録があるようです。(日本後記) 時代は下りますが、戦国時代には陣も造られたようです。     また、近世には山名も失われ、畝傍山との混同もあったようです。 畝尾が「うねび」とも読めることによるものだと思われます。




 畝尾都多本神社 (うねおつたもとじんじゃ)

  香久山の西麓(橿原市木ノ本町宮脇)にあります。
 祭神は啼沢女命(なきさわめのみこと)です。神殿は無く拝殿のみで、玉垣で囲まれた井戸と榊が御神体です。


 啼沢女命は、古事記上巻に登場します。国生みの神話に、伊邪那美命(イザナミノミコト)が火の神、迦具土神(カグツチノカミ)を生んだため神去りました。そこで伊邪那岐命(イザナギノミコト)が「『愛しき我が那邇妹 (なにも)の命を子の木に易(か)へつるかも』 (愛おしい妻の命を子供の一人に換えてしまった)とのりたまひて、乃ち御枕方にはらばひ、御足方にはらばひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に坐して泣沢女神と名づく」とあります。このことにより、古来祭神はこの泣沢女神(なきさわめのかみ)とされているようです。

 この神社の境内全体を泣沢の森といい、埴安(ハニヤス)の池畔にあったようです。水神として、また長寿や延命の神として仰がれてきたようです。 

 「 哭沢の神社(もり)に神酒(みわ)すゑ祈れどもわが大君は高日知らしぬ 」(2−202)
哭沢の神社に神酒を御供えして、高市皇子がこの世に生き長らえるように祈ったけれど、皇子はお亡くなりになった。(境内に歌碑あり)
696年7月10日に高市皇子が亡くなった時、檜前女王(ヒノクマノオオキミ)が泣沢神社を恨んで作った歌だとされています。このことにより、この神社は古代から存在していたと言えるのかも知れません。

 泣沢を鳴る沢の転じたものだと解釈するなら、やはり水に関連する神であったように思いますが、泣女の慣習や万葉歌を解釈してみると古代の葬送における号泣儀礼に関わるのかとも考えられます。やはり泣沢神社は、延命の神であったのかも知れません。

 高市皇子の邸宅である香具山宮はこの辺りにあったようです。おそらくは、奈文研調査部の下層から検出された香具と書かれた墨書土器は、天平時代の「香具山正倉」跡の物ではありますが、それ以前の遺構は高市皇子の香具山宮である可能性がきわめて高いものだと思われます。
 埴安池は、香具山の西側に広がっていたと思われています。近隣の小字名には、北浦・島廻・東浦・水分・南浦・カノ浦などがあるそうで、実際にその地名を繋いで行くと、かなり大きな池の範囲が予想されると言います。残念ながら、私には一部の小字が分かるだけです。




 畝尾坐健土安神社  (うねおにいますたけはにやすじんじゃ)

  橿原市下八釣町字南垣内にあります。  
 祭神は健土安比売命(たけはにやすひめ)・天児屋根命(マメノコヤネノミコト)です。 建土安比売命は、香久山の土を呪力の有るものとして神格化したとされています。


 香具山の埴土の神聖さを物語る話として、次の二つを上げておきます。

 日本書紀神武即位前紀
 大和へ入ろうとする神武天皇を、阻止しようとする八十梟師(ヤソタケル)の軍が要害の地で待ち伏せています。 祈請(うけい)をした神武の夢に天神が現れ「天の香山の社の土をとって、天平瓮(あまのひらか)80枚、同じく厳瓮(いつへ)〔神酒をいれる瓶〕を造って、天神地祇を敬い祭りなさい。そして潔斎して呪言を唱えなさい。このようにすれば、敵は自ら降伏するだろう。」と告げます。その通りに祭器を造り、ついに神武天皇は大和入りを果たしました。 そこで土を取った所を名付けて埴安と言ったと地名説話が付け加えられています。

 「天の香山の社」がどこを指すのかは分からないそうですが、延喜式にいう「天香山坐櫛真命神社」(アメノカグヤマニイマスクシマノミコトジンジャ)の可能性が考えられ、山頂にあったとする説があるようです。現在の天香山神社にあたるとされています。


 崇神天皇10年条
 武埴安彦と吾田姫が謀反を企てた時、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)が予知して言うには、「武埴安彦が妻吾田姫、密かに来りて、倭の香山の土を取りて、領布の頭(はし)につつみて祈みて日さく、『是、倭国の物實(ものしろ)』と申して、即ち反りぬ。・・・・。」 物實は〔代表・象徴〕の意味です。  武埴安彦と吾田姫は、大和を襲撃するのですが、予知されていたため撃退されてしまいました。

 この奪ったとされる香具山の土は、信仰の対象となるほど神聖なものでした。たとえ領布で包むほどの少量であっても、国の象徴とみられるわけです。そのように重要な土を盗むと言うのは、謀反だと判断されました。祭祀権の独占は、古代政権にとっては重要問題であったのでしょう。

 天香山神社境内に、「赤埴聖地」。国見台付近に「白埴聖地」。の石標が建っています。また神社東南の赤埴山と呼ばれる小さな丘に、埴安伝承地の碑が建っています。




 興福寺 (八釣地蔵)  (こうふくじ やつりじぞうそん)

  橿原市下八釣町にあります。
 八釣のお地蔵さんとして、親しみを込めて呼ばれています。リュウマチや神経痛に効くお灸で知られ、遠くからの参詣者が有ると聞きます。近年まで、毎月24日には耳成駅から専用バスが出ることもあったようです。
 

 寺伝が面白いので、ご紹介します。
 物部守屋が橘寺の東金堂を焼いた時、金堂に安置されていた地蔵菩薩が天香具山の頂上にとどまったそうです。そこで、聖徳太子は山麓に一寺を建立し、興福寺と称した。延命経の八怖を除く意味で山号を八釣山と名付けた。

 聖徳太子が夢のお告げで体顕された夢想の名灸が有り、リュウマチや神経痛等に良く効くということです。

 地蔵堂には古式の首切地蔵と新しい法界地蔵が祀られているそうです。 本堂本尊は、室町時代の作とされる木造地蔵菩薩半跏像です。
 現在の位置は、昭和40年頃に移されたもので、もともとは畝尾坐建土安神社北側にあったようです。




 天香山神社  (あめのかぐやまじんじゃ)

  橿原市南浦町字細谷
 祭神は、櫛真命 (クシマノミコト)です。
 延喜式「天香山坐櫛真命神社」に比定されています。元は大魔戸乃神社(おほまと)といったとしており、天平2年(730)には神田一町歩を持つとの記録があり(大和国正税帳)古くから崇拝された神社であることが分かります。
 橿原市史によれば、「 櫛真命の櫛は奇(くし)の仮字で、真は兆(まち)の古語である。卜事占兆を司る神 」としています。


 本殿後ろには、三つの屏風のような巨石があります。この屏風岩は、神の依代であって、本来は本殿は無く、古代の祭祀形態を留めていたのではないかと思われます。
 また、先にも書きましたが、この神社が山頂にあった可能性も指摘されています。日本書紀神武即位前紀の先のエピソードには続きがあり、神武天皇は弟猾(おとうかし)と椎根津彦(しいねつひこ)に「天香山に行って、こっそり頂上の土を取って来い」と命じています。先の記事の「天の香山の社の土をとって」を合わせると、頂上に社があったことになります。天香山神社の元になるお社があったのかも知れません。


 波波迦の木  (ははかのき)
 天香山神社境内にあります。古事記の天岩戸神話によれば、この木の皮で、雄鹿の肩の骨を焼いて吉凶を占っています。波波迦は「 朱桜(にわさくら)または(うわみずざくら) 」のことだとされています。


 平成2年に行われた今上天皇の大嘗祭の行事の一つでる「斎田点定の儀」の亀占に用いるために、この神社の波波迦の木の皮が奉納されています。

 天真名泉  (あめのまない)
 境内奥、本殿に向って右側にあります。


 古事記によると、天安河の宇気比(誓約・うけい)の時、天照大御神が素箋鳴尊の十拳剣をこの天真名井で振りすすぎ、三女神が生まれました。(宗像三女神) また素箋鳴尊が天照大御神の八尺の勾玉を振りすすぎ、五柱の男神が生まれました。
 この誓約の記事には、記紀によってその書き方に違いがあります。日本書紀では、素戔鳴尊は男神を生んだことで清き心を証明しますが、古事記では自分の十握剣から女神が生まれたことで清き心を証明しています。 

 また大和志には、「境内の泉は「行宮の泉」ともいい。持統天皇の離宮の地即ち此。」としています。

 ゴウタク (御田供)
 拝殿を抜け内庭に入ると、左側に切石で囲まれた四角い仕切りがあります。御湯行事やゴウタクが行われる釜を設置する場所です。
 ゴウタクは、田植え直前に行われ、五穀豊穣を祈願して御湯を捧げるのですが、その際釜の淵に水を浸した米をすりつぶした団子をのせ、蒸し焼きのようにします。団子は氏子に分けられます。




 月の誕生石

 香久山の北側に張り出した尾根には、不思議な石の話が伝わっています。
 露出した花崗岩の大石で、高さ1.5m、幅6.5m、奥行き3mほどもあり、全体の3分の1ぐらいの位置に幅20cmほどの窪みによって、二個の石のように見えます。
 石はあたかも妊婦が腹帯をして、横たわっているようです。地元ではこの石を、「 月の誕生石 」と呼んでいるそうです。 胸の辺りと見えるところには、黒っぽい斑点があり月の足跡。お腹の当たりの斑点は月が使った産湯とも伝わっています。


 『 香久山の北の小山に、ひとかかえ程の丸みのある、とても綺麗な石があった。次第に大きくなり人肌のようなぬくもりをのこし、夕焼け空を染め上げたように輝いていました。不思議な事に、お腹のあたりが今までになかった白い帯びのようなものが浮き出てきました。「石が赤ちゃんを生むのかもしれない。」「どんな赤ちゃんを生むのだろうか?」子供たちはすっかり心うきうき、赤ちゃん石が生まれるのを心待ちにしておったそうな。
 それからも石は少しずつ大きくなり、お腹のあたりも、ぐっと突き出てきてなんだか苦しそうにさえ見えたそうな。それから1〜2日後の月の無い晩のこと、山のほうで赤ちゃんの泣くこえを聞いたような気がして、「赤ちゃんが生まれたんだ、石の赤ちゃんが!」子供たちは皆そう叫んで外に飛び出したそうな。すると声がする山の空がパット明るくなり、そしてあの山の頂きから、真ん丸い月が顔を出した。

 「石の赤ちゃんが生まれた、生まれたんだ・・・」と小躍りして喜んだそうだ。翌日、子供たちは山へ見に行くと、石はしぼんだ様に、お腹が小さくなり石の上に赤ちゃんの足跡が影の様に残っておったそうな。 』  月の誕生石案内板より

 近年まで、この石には注連縄がしてあったそうです。 香具山々中には、伝承を持つ石が幾つかあります。月の誕生石も含めて、磐座信仰の名残なのかも知れません。




蛇繋ぎ石

 月の誕生石からは北東方向になります。高さ1.5m、幅4m、奥行き2.5mの大きな石です。香具山の北に張り出した尾根の一つに在りますが、遊歩道の行き止まりに見える広い場所からさらに奥に在りますので、近くに行っても見つけることは難しいかもしれません。 以前は、笹薮を突き抜けた雑木林の中に唐突に姿を現し、不思議な空間を作っていました。


 石の左手方向に回りこむと、縞模様があり、あたかも鎖でも巻きつけた痕のように見えます。山頂に祭られるタカオカミ神(クラオカミ神)が、雨乞いの神事に導き出されたとき、うち跨ってきた龍(大蛇)を繋ぎ止めたのでしょうか。 
 この石も磐座信仰の対象となっていたように思えます。村人が雨乞いの御供えを捧げて、お祈りした姿が想像されます。残念ながら、詳細な伝承は残されていません。ただその名前から、想像を広げる他ないようです。

 香具山には、月の誕生石・蛇繋ぎ石の他にも、鎌研ぎ石・七ツ石・オイッコ石など謎に満ちた不思議な石が点在しています。 山中から露出した石にも、何かしらの伝承を付託したくなる神秘の山、それが天香具山なのかも知れません。




 月輪石

 橿原市東池尻町
 香久山の北東に延びた尾根の先に、小さな御厨子山という小高い森があります。山頂には御厨子神社(みずしじんじゃ)が鎮座しています。 祭神は、根裂神(ネサクノカミ)・安産霊神(ヤスムスビノカミ)・誉田別命(ほんだわけのみこと)です。
 元は、水尻神社(みずしじんじゃ)と書き表していたそうです。磐余池に関連する地名であろうと思われます。


 この御厨子神社の地は、清寧天皇(せいねいてんのう)の磐余甕栗宮跡(いわれみかぐりのみや)に比定されています。
 この神社の森は「壇場の森」といわれていて、清寧天皇元年『友司(つかさ)に命じて壇場(たかみくら)を磐余の甕栗(みかぐり)に設けて、天つ日嗣をしらしめす』(日本書紀)の記事に、比定される所です。神社参道には清寧天皇磐余甕栗宮跡の石柱があります。

 清寧天皇は、雄略天皇の第三皇子です。雄略天皇の後、皇位を継いで第22代天皇となられました。母は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。 后妃も皇子皇女も無かったと伝えられます。生まれながらの白髪であったことから、父の雄略から霊異を感じるとして皇太子に選ばれたとされます。

 清寧天皇元年(480年)に即位。名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)。
 清寧天皇は、子供が居ないことから市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見し迎え入れました。清寧天皇崩御から顕宗天皇即位までには空白期間があり、飯豊皇女が実際に政治を執行していたとされています。また、即位していたと解釈する説もあります。日本書紀によれば、1年に満たない期間ですが、そもそも清寧天皇の存在を架空とする説もあり、この辺りの歴史は混沌としています。


 祭神の根裂神は、伊邪那岐命(イザナギ)が十握剣(とつかのつるぎ)で軻遇突智神(カグツチノカミ)を斬った時、剣の峰から滴り落ちた血からなった神とされています(書紀)。古事記では「根折神」(ねさく)と書かれます。どちらも木の根を裂くほどの威力のある雷神とされています。木どころか岩まで裂き割ったのでしょうか。

 月輪石は神社の広庭東北方竹薮中にあります。 大きさは、長さ3.7m、高さ1.4m、幅1.9m。中央部の亀裂は40cm。


 この石も古代信仰の名残なのでしょう。神の依代である磐座として今も祭られています。橿原市史は、この石を俗称「月輪石」とし、「磐座ともみられ、この地方の原始的古代信仰の名残だと言えぬだろうか」と書いています。その説明写真には、「根裂石」と書かれています。

 しかし何故この石を「月輪石」と呼ぶのでしょう。伝承は失われてしまったようです。「月の誕生石」といい、香久山北方に「月」の名前が使われている不思議な石が二つも存在するのが気になります。




 御厨子山妙法寺 (みずしさんみょうほうじ)

 御厨子神社南側に境を接してあります。現在は高野山真言宗のお寺です。
 磐余池が付近にあったと推定されることから、大津皇子の法要なども営まれることもあり、現在では神社よりも知られる存在であるかも知れません。
 創建は、縁起によれば右大臣吉備真備によると伝えられているそうです。遣唐使として入唐後、子供の善覚律師に命じて観音堂を建立させたとされ、盛時には妙法寺、北室院、南室院などが在ったようです。

 吉備真備は、このお寺の北東約1Kmにある桜井市吉備が本拠地だとされ、屋敷跡や塚とされる五輪塔などが今に伝わっています。

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2008年 2月 20日

三山 「大和三山探検記」

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