天香具山考 その2


当サイト「三山・香久山の項」改訂版

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天蚕生原旧跡地碑

 橿原市南浦町
 この碑が何であるのかは不明です。 「天の蚕の生原旧跡」と読めば、古事記にでも出てきそうな高天原伝承によるのかとも読み取れますが、「てんさん」と読んでしまえば、「ヤママユガ」のことで、天然の蚕・野生の蚕を指すことになります。 後者ではないかと思うのですが、詳しいことは調べてもわかりませんでした。 碑の状態から見て、天蚕の育成に関わる神社でも在ったのかも知れません。
 日本で蚕が初めて生息した地と説明したサイトも有りますが・・・、如何でしょうか。





国常立神社  (くにのとこたて(ち)じんじゃ)

 山頂南向きに鎮座します。 祭神は、国常立神 (国常立尊)です。古来より 「雨の竜王」と呼ばれ、雨乞いに霊験があるとされてきました。


 山頂覆屋の中に二社が並立して在り、左側のお社が主祭神の「国常立神」、右側はタカオカミ(クラオカミ)神(竜王神)のお社です。
 国常立尊は、『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊と記されています。国土形成神であり、また国土の永遠の安定を祝福する神であるとされています。 
 日本書紀では、天地創生の最初に登場した神として記されています。『 ・・・・、天がまず出来上がって、地は後に定まった。そうして後に、神がその中に生まれたもうた。・・・(略)・・、天と地の間に一つの物が生まれた。その形は葦の芽のようであって、これが国常立尊という神になったのである。』 また古事記においても、神世七代の一番目に現れた神として記されています。

 しかし、大和盆地では農業用水の確保は、重要な問題でした。香久山でも雨乞い神事が盛んに行われます。いつしか末社として祀られていたタカオカミ社が請雨の崇敬を集めるようになり、竜王社と呼ばれるようなったようです。香久山そのものも竜王山とも呼ばれました。
 向って右側の社殿前に、水をたたえた壺が埋められていて、古来干天の時に、この神に雨乞いして壺の水を替えました。しかしまだ雨の降らない時には、この社の灯明の火で松明を作り、村中を振り歩いたといいます。この火振りの神事は、耳成山でも行われていたようです。
 天保9年(1838)の香具山に登った土佐藩士の記録があり、「大和巡日記」と言う書物の中に、「これは雨乞壺の由。ここへ水入れ減りたれば雨降り、減らざれば不降。十度に九度は雨降と処の申。」 と記されています。

 この山頂神社の字の名は、天指(あまのさし)と言います。 天を指す。何か意味深い名前ではあります。




国見の丘

 香久山西側の中腹にあります。舒明天皇の国見の歌の歌碑と佐々木信綱氏の歌碑や天香山白埴聖地の石碑が建っています。
 西方向から北西の眺望は大きく開け、畝傍山から耳成山にかけて見渡す事が出来ます。ここから見る二上山への落日は絶景です。


国見の丘から北西方向 耳成山

 「天皇登香具山望国之時御製歌」 (天皇の香具山に登りて望国したまひし時の御製歌)

 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 
 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
 舒明天皇 万葉集 巻1-2  

 大和にはたくさんの山々があるけれど、とりわけ立派な山が香具山だ。その山に登って国見をすると、国土からは炊飯の煙が上がり、海上には豊漁を告げるカモメが飛び交っている。満ち足りた良い国だ、この大和の国は。


 この歌は、秋の豊な実りを予祝する歌であると言われます。予祝というのは、物事の始まる前にあらかじめ良い結果を想定して祝ってしまうことです。いわば言霊の呪力によって良い結果を導き出そうとするのだと思います。
 民間でも昔から行われてきたことで、予祝行事として小正月や春に行われる風習が残る所もあるようです。国家行事としては、時と共に儀礼化して行ったものだと思いますが、この歌はその過渡期の段階を表しているのかも知れません。
 もし、この解釈が正しいく予祝の歌であるのならば、通常訳されるように「海原」を埴安池等の湖沼とするのではなく、実際には見えないが本当の海の豊漁を願って歌ったのではないかと思えます。 天皇の国見の歌が、目の前の光景のみを歌ったのだとすると、150mほどの香具山から見渡せる範囲は、あまりにも小さすぎます。

 予祝をするためには、その儀式の場も特別に神聖な場所で無ければならなかったのでしょう。歌では、まずその舞台となる香具山から褒め始めています。
 舒明天皇の宮である飛鳥岡本宮から北方に直線距離で2.5kmの位置にある天香具山は、その絶好の場所であったでしょう。




天岩戸神社  (あめのいわとじんじゃ)

 香久山の南麓橿原市南浦町に鎮座します。
 祭神は天照大神です。
 天照大神が岩戸隠れされた所とされ、巨石四個が在って、岩穴を御神体としています。本殿はなく拝殿のみがあり、古い祭祀の形を止めています。


 天岩戸伝説
 天安河の誓約の後、須佐之男命(スサノオノミコト)の行動は粗暴になって行きます。天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、天岩戸に引き篭ってしまいます。高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍が発生しました。この下りは、知らない人も少ないと思いますが、これから先が天香具山にかかわりの深い物語となって行きます。 少し長くなりますが、ご紹介しておきます。


 事態の打開に、八百万の神が天の安河の川原に集まり、どうすれば良いか相談をしました。高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の子、思金神(オモイカネノカミ)の案により、常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、天の安河の川上にある堅い岩を取り天の金山の鉄を採り、鍛冶の天津麻羅(アマツマラ)を探し、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に命じて八咫鏡を作らせ、玉祖命(タマノヤノミコト)に命じて八尺の勾玉の五百津(いほつ)の御須麻流(みすまる)の珠を作らせ、天兒屋命(アメノコヤネ)と布刀玉命(フトダマノミコト)を召して、天の香山の雄鹿の肩の骨を抜き取り、天の香山の天の波波迦(ははか)の木を取って占いをさせ、天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根ごと掘り起こし、上の枝に八尺瓊勾玉と御須麻流の珠を掛け、中の枝に八咫鏡と下の枝に白丹寸手、青丹寸手を垂らし、布刀玉命が御幣として奉げ持ち、天兒屋命が祝詞を唱え、天手力男神(タヂカラオノカミ)が岩戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命(アメノウズメノミコト)が天の香山の天の日影を襷にして、天の柾の葛を縵にして、天の香山の笹を手に束ね持ち、天の岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊りました。すると、高天原が響めくように八百万の神々が一斉に笑った。
 この声を聴いた天照大神は、(以下略記)天岩戸の扉を少し開け、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出しました。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなったといいます。

 このように、この物語に無くてはならない数々の道具は、天香具山の物が用いられています。逆に言えば、天香具山が神聖な場所であることが強調されているようにも思われます。

 また付近には天岩戸に関する伝承として、湯笹の社・榊の霊木・七本竹などの植物に関する伝承や、天戸棚・花園・舞台・岩戸(岩戸前。岩戸東・西)・・・など、小字名に名を止める場所が存在しています。

 七本竹
 天岩戸神社神域に生える竹は七本竹と言われています。この竹は年々七本ずつ枯れ、七本ずつ新しい竹が生えるので、この名がつけられたといいます。




湯笹明神 (ゆざさみょうじん)

 天宇受売命が手草にした笹の葉は、湯笹とも呼ばれる女笹のことだそうです。この竹は、四方竹という天然の四角い竹で、触った感じも普通の竹とは異なり、ざらざらしています。手に触れると腹痛が起こるといわれています。そう言うことで竹を守ってきたのでしょうか。
 湯笹の湯は「斎」が転じたものだそうで、斎笹(ゆささ)が本来の字だそうです。
 天宇受売命が踊った場所、その場所が小字「舞台」なのでしょうか。その「舞台」にある湯笹は、岩戸神社より南(やや東)へ100メートルほどの所です。今、湯笹明神が祭られています。


 しかし、この天岩戸神社とされるお社を、「大和志料」は延喜式内社である「坂門神社」にあてています。「五郡神社記」という書に「十市郡坂門神社一座、神戸郷香山の南山野に在り、俗に亀の岩戸と云う」とあり、大和志料はこの説を採っています。 「天の岩屋」は「亀の岩屋」の転訛したものだと言うわけです。 果たしてどうなのでしょうか。

 また、奈良県「磯城郡誌」に面白い話が載っています。「・・・玉垣を設けてこれを崇敬せり。伝え云う。この石は石窟の入口の蓋にて、窟は北麓まで貫通せり・・・是れ正しく古墳にして・・・」 岩屋の穴が香具山を貫通していると言う話は、昔から有ったのだそうです。もちろん確証のある話ではありませんが。




上の御前・下の御前  (かみのごぜん・しものごぜん)

 山頂から南の登山道を下り東に脇道を行くと、伊邪那岐命(イザナギ・イザナキと濁らないのが近年は正しいとされているようです。)を祀る上の御前(伊邪那岐命神社)のお社があります。さらに西に戻るように下ると、伊邪那美命(イザナミ)を祀る下の御前(伊邪那美命神社)があります。

イザナミ命を祀る下の御前

 伊邪那岐命・伊邪那美命の二神は、国土形成の神話や黄泉の国の話などで知られます。両社は、国常立神社の末社として扱われているようです。

イザナギ命を祀る上の御前

 上の御前の石灯篭には、寛政十戌午年(1798)の銘があり、下の御前の石灯篭にも文化四卯(1807)12月の銘が見えます。
 お社はさほど古い物ではありませんが、山中人気の無い場所に鎮まる様子は、何かおどろおどろしい気配さえ感じさせます。 なぜこのような場所にお祀りされているのでしょう。




日向寺  (ひむかてら)

 橿原市南浦町に所在する浄土宗のお寺です。 本尊は阿弥陀如来、大日堂に大日如来を祀ります。この像には底に墨書が残っており、室町時代の作であることが分かっています。
 日向寺の名は、「聖徳太子伝暦」の太子建立寺院の中に見え、「古今目録抄」にも四十八院中に寺名が見えます。


 境内の内外からは、飛鳥時代や白鳳期の古瓦が検出され、以前には礎石も在ったと言われています。 
 寺名からの推測ですが、創建は蘇我日向(そがのひむか)である可能性があるのではないかと考えます。




興善寺  (こうぜんじ)

 橿原市戒外町に所在する真言宗豊山派のお寺です。本尊は、文殊菩薩および侍者像で、いわゆる渡海文殊の形式をとっています。(室町時代) 一般的には、香久山の文殊さんとして知られます。桜井市に在る安倍文殊院渡海文殊像を手本として作られたものと思われますが、逆にこちらが先だとの伝えもあるようです。 しかし、像内には墨書銘があり、寛正4年(1463)に仏師定英の作である事が知られています。 (安倍文殊は、快慶作)

 興善寺は、大安寺の道慈律師が開いた香久山寺(香山寺)の後身と言われますが、寺域からは本薬師寺・藤原宮・岡寺などの様式の古瓦が出土し、創建は奈良時代以前に遡るのではないかとされています。

 江戸中期まで本堂・御影堂・鐘楼・鎮守社・僧房七宇があったようです。


資料作成日に歩いた探検モデルコース



近鉄耳成駅より飛鳥庵(飛鳥寺西口)まで、約10キロのウォーキングコースです。

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2008年 2月 20日

三山 「大和三山探検記」

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